世界がAIに驚く、ずっと前に
ChatGPTが言葉を紡ぎ、画像生成AIが写真と見紛うような光景を描き出す。AIは文章を書くだけでなく、画像を認識し、音声を理解し、複雑な問題にも取り組むようになった。今やAI開発は、アメリカの巨大IT企業を中心とした世界的な競争になっている。莫大な資金と計算資源を投入し、各社が次々と新しい技術を発表する。私たちの目には、AIがここ数年で突然、驚くほど賢くなったように映る。
しかし、その歴史を少し遡ってみると、まったく違う景色が見えてくる。まだコンピュータの能力が限られ、AIが社会を変えるなどとは想像しにくかった時代。人間の脳はどのようにものを認識するのか。機械はどのように学習することができるのか。そんな根本的な問いに、数学と科学で挑んでいた日本人研究者がいた。福島邦彦氏と甘利俊一氏である。
彼らは、現在のChatGPTや画像生成AIを開発したわけではない。しかし、現在のAIを支えるニューラルネットワークや機械学習の歴史を辿ると、二人の研究は重要な位置を占めている。興味深いのは、その研究が行われた時代だ。今のような高性能GPUも、インターネット上に蓄積された膨大なデータもない。研究の成果を大規模に実証する環境さえ十分ではなかった。それでも彼らは、機械が人間の知的な働きに近づくための道を探っていた。
1. 福島邦彦――機械に人間のような「視覚」を与えようとした研究者
人間は、目の前にあるものをどのように認識しているのだろう。例えば、一枚の写真に写っている猫を見つけるとき、私たちは単に色や明るさだけで判断しているわけではない。輪郭や模様、耳や目の位置など、さまざまな特徴を捉え、それらを組み合わせて猫という対象を認識している。さらに、猫が写真の中央にいても、端にいても、多少傾いていても、私たちは同じ猫だと判断できる。人間にとっては当たり前の能力だが、機械にとっては簡単なことではなかった。
この問題に真正面から取り組んだのが、福島邦彦氏である。福島氏は、人間や動物の視覚を研究し、その情報処理の仕組みを人工的なニューラルネットワークで再現しようとした。そして1979年の国際会議でネオコグニトロンを発表し、1980年にはその研究を論文として発表した。
ネオコグニトロンの特徴は、画像の中にある単純な特徴を捉え、それらを段階的に組み合わせながら、複雑な形を認識していく階層構造にある。人間の脳にある視覚野の情報処理を参考に、複数の層を通じて特徴を抽出し、対象の形を認識する仕組みを構築したのである。しかも、単に画像を分類するだけではない。位置が変わったり、形に多少の変形があったりしても、同じ対象として認識できることを目指していた。
ここが重要だ。現在の画像認識AIで使われているCNN(畳み込みニューラルネットワーク)を理解するうえでも、ネオコグニトロンは重要な先駆的研究として位置づけられている。福島氏の研究は、機械に画像を見せて分類させるという発想にとどまらず、人間の視覚が持つ特徴抽出の仕組みそのものを機械で実現しようとしたものだった。後年には、ネオコグニトロンを用いた手書き数字の認識システムも実装されている。
現在、スマートフォンのカメラが被写体を認識し、写真の中から人物や物体を識別する。そんな技術の背景には、こうした研究の歴史がある。もちろん、現在のCNNはネオコグニトロンをそのまま引き継いだものではない。その後の誤差逆伝播法など、多くの研究と技術的な発展があって現在の形になった。それでも、福島氏が半世紀近く前に取り組んだ問題は、現在の画像認識技術にも通じるものだった。機械に世界を見せる。そのためには、人間の目と脳が何をしているのかを理解しなければならない。福島氏が挑んだのは、まさにその難題だった。
2. 甘利俊一――機械が「学ぶ」という仕組みを数学で切り開いた研究者
ものを認識する仕組みがあっても、それだけでは機械は賢くならない。大量のデータから規則性を見つけ、間違いを修正し、少しずつ適切な判断に近づいていく。現在のAIに欠かせないのが、機械学習という仕組みである。この領域で、早くから重要な研究を進めていたのが甘利俊一氏だ。
甘利氏は1967年、「A Theory of Adaptive Pattern Classifiers」という論文を発表した。当時のパターン認識研究では、機械にどのように判断させるかが大きな課題だった。甘利氏は、単純な識別だけでなく、ニューラルネットワークの中間層にも学習機能を持たせ、その重みを調整することで、より高度な識別能力を実現できる可能性を理論的に示した。これは、現在の深層ニューラルネットワークにつながる重要な研究だった。
日本学士院も、甘利氏が1967年に複数層のパーセプトロンの中間層に学習機能を持たせる研究を行い、その重み学習法が現在の深層ニューラルネットワークにおける誤差逆伝播法の源流の一つになったと評価している。ここで注目したいのは、甘利氏が単に機械に学習させる方法を考えただけではないということだ。機械がなぜ学習できるのか。どのような条件で学習が進み、どのように望ましい状態へ近づいていくのか。その仕組みを数学的に解き明かそうとしたのである。
さらに甘利氏は、1980年代に「情報幾何学」という新しい数学分野を創始した。これは、統計学で扱う確率分布の世界に、微分幾何学の考え方を取り入れるものだ。少し難しく聞こえるが、確率や統計を単なる数字の集まりとしてではなく、幾何学的な構造を持つものとして捉え直す研究である。その成果は、機械学習や信号処理など、幅広い分野に影響を与えている。
特に、甘利氏が提案した「自然勾配法」は、通常の勾配法では扱いにくい統計モデルの学習を、幾何学的な構造を考慮して効率化する方法として知られている。現在のAIが膨大なパラメータを調整しながら学習する。その背後には、こうした数学的な研究が広がっている。甘利氏の研究は、機械学習を単なるプログラムの技術としてではなく、数学そのものから理解しようとする試みだった。機械が学ぶとはどういうことなのか。その問いを半世紀以上にわたって追究してきた研究者なのである。
3. 二人が見ていた未来と、追いつけなかった時代
福島氏と甘利氏の研究を並べてみると、興味深い共通点が見えてくる。福島氏は、機械がどのように世界を認識するのかを追究した。甘利氏は、機械がどのように学習し、能力を獲得するのかを追究した。一方は視覚認識の仕組みを、もう一方は学習の数学的な仕組みを深く掘り下げた。
もちろん、二人の研究だけで現在のAIが完成したわけではない。それぞれ異なる研究の系譜に属し、多くの研究者による成果が後に結びついていった。しかし、二人が取り組んだ問題は、現在のAIにも通じている。では、なぜ彼らの研究は、すぐに社会を変える技術にならなかったのだろう。
大きな理由の一つは、当時のコンピュータの能力にある。現在のAIが扱うような膨大なデータも、高速な並列計算を可能にするGPUも存在しなかった。理論的に可能性が見えていても、それを大規模に実証するための環境が整っていなかったのである。
その後、計算能力の向上、データの蓄積、学習手法の改良など、さまざまな技術が積み重なった。2010年代にはディープラーニングが大きな成果を上げ、画像認識や音声認識の分野でAIは飛躍的な進歩を遂げる。そして現在、Transformerを基盤とする大規模言語モデルが登場し、生成AIの時代を迎えている。
ここで忘れてはならないのは、現在のAIが過去の研究をそのまま実装したものではないということだ。後の研究者たちが新しい理論や技術を生み出し、過去の研究を発展させ、別の技術と結びつけてきた。それでも、半世紀前に二人が向き合った問題が、現在のAI研究の重要なテーマと重なっていることは興味深い。時代が追いつくまでに、長い時間が必要だったのである。
世界を変える技術は、誰かの問いから始まる
現在のAI開発を牽引しているのは、巨大な計算資源と資金を持つ世界の企業や研究機関だ。新しいモデルが発表されるたびに性能が比較され、開発競争の勝者が語られる。私たちも、その華やかな成果に目を奪われがちだ。しかし、技術の歴史を振り返れば、今日の成果は、昨日までの研究の積み重ねの上にある。
福島邦彦氏は、人間の視覚という複雑な仕組みに向き合い、機械に形を認識させるための道を切り開いた。甘利俊一氏は、機械が学ぶという現象を数学で解き明かそうとし、ニューラルネットワークの学習理論や情報幾何学という新しい領域を切り開いた。二人の仕事は、単なる過去の研究成果ではない。後に続く研究者たちが、その先へ進むための道を残したのである。
井戸を掘った人と、そこから水を汲み上げる人は、必ずしも同じではない。そして、井戸を掘った人の仕事は、そこから水が湧き出し、多くの人がその水を使うようになって初めて、その価値が広く知られることもある。
AIの時代を牽引している企業や研究者たちに敬意を払うことと、その基礎を築いた先人たちを評価することは、決して矛盾しない。むしろ、現在の技術を正しく理解するためには、その原点を知る必要がある。
世界がAIの可能性に熱狂するずっと前から、その未来につながる問いを追い続けていた日本人研究者がいた。福島邦彦氏と甘利俊一氏。二人の研究を知ることは、日本の科学技術の歴史を知るだけではない。AIがどこから来て、何の上に成り立っているのかを考えることでもある。
未来を切り開くのは、最新のコンピュータだけではない。まだ誰も答えを知らない問いに、何十年も向き合い続ける人間の知性なのだ。
参考資料
- 福島邦彦「Neocognitron: A self-organizing neural network model for a mechanism of pattern recognition unaffected by shift in position」(1980年)
- 福島邦彦「Self-Organization of a Neural Network which Gives Position-Invariant Response」(1979年)
- 甘利俊一「A Theory of Adaptive Pattern Classifiers」(1967年)
- 日本学士院:甘利俊一氏の研究業績
- 京都賞:甘利俊一氏の研究紹介

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