SNSは、もっと静かでいい。
もっと曖昧で、もっと余白があっていい。
そう考えると、SNSは「発言の場」というより、
カフェや喫茶店のような空間として捉えると、しっくりくる。
カフェや喫茶店では、必ずしも会話が主役ではない。
誰かと話している人もいれば、一人で本を読んでいる人もいる。
ノートに何かを書いている人も、窓の外を眺めている人もいる。
それぞれが別々のことをしているのに、
同じ空間を、ただ共有している。
その「同席している感じ」こそが、あの場所の心地よさだ。
SNSも、本来はそういう場所のはずだった。
常に何かを発信しなくてもいい。
誰かに反応しなくてもいい。
ただそこにいて、
流れてくる言葉を眺めているだけでも、成立する。
発言することが参加条件だと思い込むと、
SNSは一気に、息苦しくなる。
カフェでは、大声で話す人は少ない。
話すとしても、声のトーンは自然と抑えられる。
周囲に知らない人がいることを、無意識に感じ取っているからだ。
そこは完全なプライベート空間ではなく、
同時に、公共の場でもある。
その感覚が、言葉をほんの少し、丁寧にする。
SNSも同じだ。
誰が見ているかは分からない。
いつ、どこで、どんな文脈で読まれるかも分からない。
だからこそ、
内輪だけに通じる強い言葉や、
断定的な表現は、思った以上に尖って見える。
それは臆病になるべきだ、という話ではない。
場の性質を、理解するということだ。
カフェでは、深い話ほど小さな声になる。
人生の悩みや、大切な決断の話を、
店内に響く声で語る人はいない。
必要なら席を選び、相手を選び、言葉を選ぶ。
場合によっては、場所そのものを変える。
SNSでも同様に、
本当に大切な話、
誤解されたくない話、
感情が大きく動いている話は、
別の伝え方を選んだほうがいいことが多い。
タイムラインは、
思考の途中や、気配の共有くらいがちょうどいい。
喫茶店で過ごす時間には、
明確な目的がないことが多い。
仕事の合間に、少し休む。
考えごとをする。
何も考えず、ただコーヒーを飲む。
その時間が、何かの成果に直結しなくても、問題にはならない。
SNSも、役に立たなくていい。
結論がなくていい。
整理されていなくていい。
翌日、忘れられてもいい。
言葉が、ほんの一瞬、
誰かの視界を通り過ぎるだけで、十分なこともある。
居心地のいいカフェには、独特の空気がある。
誰かが仕切っているわけではない。
けれど、
常連の振る舞いや、
店全体のリズムによって、
その空気は、自然と守られている。
SNSでも、空気をつくっているのは
声の大きな人ではない。
淡々と続けている人。
日常を、静かに共有している人。
そうした存在が、
場の温度を、少しずつ決めている。
SNSに疲れたときは、
「何かを言わなければならない場所」だと
思い込んでいないか、
一度、立ち止まってみるといい。
カフェに座って、
無理に話題を探す人はいない。
SNSも、それでいい。
主張しなくてもいい。
結論を出さなくてもいい。
評価されなくてもいい。
SNSは、
それぞれが自分のペースで
言葉を、そっと置いていく場所。
静かなカフェのような場所で、あればいい。
そう考えるだけで、
言葉は少しやわらぎ、
SNSとの距離も、
ほんの少し、心地よくなる。

