なぜ私たちは、何気ない日常をアートにするのか?
私は、見過ごしていた日常の中に、まだ気づいていない何かを見つけたいからではないかと思っています。
朝の光、道端の影、誰かの仕草、季節の花、器、茶室、書かれた一文字。どれも、それだけを見れば特別なものではないのかもしれません。
けれど、そこに少しだけ視線を長く留めてみると、「ただそこにあるもの」が、少し違って見えてくることがあります。
写真を撮ること、絵を描くこと、音楽を奏でること。あるいは、花を生けること、茶を点てること、文字を書くこと。
こうした行為は、単に何かを美しく仕上げるためだけのものではないように、私は感じています。
「私は、いま何を見ているのだろう」
「この瞬間を、どう感じているのだろう」
そんなことを確かめる行為でもあるのではないでしょうか。
華道なら、花そのものだけではなく、花と器、空間、季節、余白との関係を見る。茶道なら、一服の茶だけではなく、器や所作、光、空間、その場に流れる時間を見る。書道なら、文字の意味だけではなく、線の強弱や速度、余白、紙との関係に目を向ける。
そう考えていくと、アートとは、特別なものをつくることだけではないのかもしれません。
ありふれたものを、もう一度見ること。
そして、そこにまだ見えていなかった関係や意味を見つけること。
私は、そんなところにもアートの面白さがあるように思います。
昨日まで何とも思わなかった風景が、ある日突然、少し違って見える。花一本の置き方によって、空間全体が違って感じられる。いつもの一杯のお茶が、その日の時間そのもののように感じられる。一文字の線や余白から、書いた人の呼吸まで想像してしまう。
そのとき、日常そのものが変わったわけではありません。
変わったのは、こちらの見方なのかもしれません。
だから私は、アートというものを考えるとき、作品そのものだけではなく、「見る」という行為について考えてしまいます。
たくさんつくることより、たくさん見ること。
そして、見ることの解像度が少しずつ上がっていくと、同じ日常が、それまでとは違った世界として見えてくる。
私には、そこに「何気ない日常をアートにする」ということの一つの意味があるように思えるのです。

